|
|
芦田記念館

【芦田記念館完成図】 |
芦田 均
第四十七代内閣総理大臣、芦田均氏は、明治二十年、丹波綾部藩領山裏郷(現在京都府福知山市字宮)の大庄屋の家に出生、兵庫県柏原中学校、第一高等学校を経て、明治四十五年、東京帝国大学法学部卒業、在学中に難関の外交官試験に合格したという大秀才である。
悲痛な敗戦も芦田均にとっては理想現実の好機でもあった。戦後政界の大立役者、吉田茂と芦田均氏は、犬猿の間柄と噂された。
結局、吉田の率いる自由党を脱退して、民主党を設立し、自ら総裁となった芦田均氏は、GHQの支持を受けて躍進し第一党となった社会党が、片山を首班とする社民中心の連立内閣を組織した際、乞われて副総理外相就任した。
片山内閣は、左右両翼の激しい対立から崩壊した後、国会で吉田を破って正式に総理大臣指名を受けた芦田が、片山内閣を継承する形で組閣を行ったため悪評を受けた。
芦田にとって当然の組織であり、悪評を意に介さず祖国復興を目指して余念なく奮励したが、不幸未曾有の昭電大地獄事件に巻き込まれ、短期総辞職を余儀なくされて挫折した。
この疑獄は、芦田の余りの社会党接近を憎む保守主義者の陰謀だという噂が根強く伝えられている。 |
建設予定地 |
|
|
|